【オヤジンセイ】渡辺裕之「いきなりスカウトされて映画スターだろ!」自撮り写真で掴んだデビュー
特集「オヤジンセイ」渡辺裕之<前編>
ジャズドラマーと映画スターに憧れた子ども時代

親父はカメラマンで、茨城県の水戸市でカメラ屋とスタジオを営んでいました。おふくろは満州で育って終戦後に日本に帰ってきたこともあり、どこか大陸的な空気を持っていて、日本のドラマよりも洋画を好むところがありました。爺さんも映画好きだったので時代劇によく連れて行ってもらったし、「ザ・ドリフターズ」や「若大将」も好きで観に行っていました。
過ごした商店街は地域の子どもをすごく大切にして、可愛がってくれるけれど叱ってもくれる、そういうコミュニティがありました。家の前を路面電車(水浜線 1966年に廃線)が通っていたのですが、僕はカウボーイハットを被ってオモチャの2丁拳銃を腰から下げて、自転車で走って行き電車の前で「ホールドアップ!」と電車を止めるんです。そうすると車掌さんも止まってくれて、僕が「よし行け!」と言うとまた走り出してくれる。そんなのんびりした時代でしたね(笑)。
ウエスタン映画を観たらスティーブ・マックイーンみたいなガンマンに、スパイ映画を観たら諜報部員になり切るし、電車に乗ったら「もし自分が車掌さんだったら…」と考える。そういったいろいろな“なりたい職業”を実現できるのは俳優という仕事なんだと知り、小学校高学年くらいからは「映画スターになりたい」と思うようになりました。
フランキー堺さんが慶應大学の学生でジャズ・ドラマーから喜劇俳優になったり、クレイジーキャッツがいたり、ドラマーを主人公にした石原裕次郎さんの映画「嵐を呼ぶ男」(1957年公開)があったりと、ドラマーがカッコよく描かれている映画がたくさんあった。小学4年生からジャズドラムを演奏していたこともあり、自分もそういうドラマーで俳優になりたいとずっと思っていました。
中学3年生くらいから大人に混じってドラマーとしてアルバイトをし、高校に進学してもアマチュアで活動したり、夏休みになるとバンドを組んでビアガーデンで演奏したり、学校終わりでキャバレーやクラブでも演奏をしていました。掃除のバイトの時給が200円くらいだった頃に、月に10万円くらい稼いでいましたね。
宣伝写真を自撮りして営業、掴んだ主演デビュー

自分がなりたいのは俳優でミュージシャン、というのは常に心にありましたが、“長男で家の跡継ぎ”という意識があったので、商業を勉強するために大学に進学しました。
その後、大学3年生から卒業後を含めて4年間、ルフトハンザドイツ航空でアルバイトをして、同時に夜はバンドの仕事をするという生活をしていました。卒業して2年後に、親父がガンで手術をしたこともあって、そろそろ本格的にカメラの勉強をしないといけないと思い、東京のカメラ屋さんに丁稚奉公のようなかたちで1年間修業に行くことに。
そうしているうちに親父が元気になったので、自分の進みたい道に行く決心をして、ルフトハンザの知り合いの紹介で、外国人モデルのマネージャーとして2年間働くことに。そして、実家のスタジオで宣伝用の写真を自撮りして、マネージャーとして営業に行っていた広告制作会社などに売り込みを始めました。
それで最初にもらった仕事が「コカ・コーラ」のCM(1980年)出演。その時に親しくなった撮影カメラマンの方が、映画を撮る時に声をかけてくれたのが、俳優としてのデビュー作となった映画「オン・ザ・ロード」(※)です。今見るともちろん芝居の基礎もできていないし、茨城の訛りもあるし、恥ずかしいですね。
(※)1982年公開、主人公の白バイ警官役を演じた。
通常の俳優デビューというのは、芸能事務所に入ったり劇団に入ったりするものですが、そういうルートへの入り方が分からなかった。「いきなりスカウトされて映画スターだろ!」という考えが自分の中にありました(笑)。
映画に出演することは親父には言っていなくて、新聞の広告を見て初めて知って「跡を継ぐんじゃないのか!」と驚いたみたいです。でも実は喜んでくれていて、周囲には自慢していたようですが。
37歳の時に親父が死んで、自分にできた息子が育って初めて「継げなくて申し訳なかったな」と思うようになりましたが、生きている時には思わないものなんですよね。「ああ、親父はあの時こういう気持ちだったんだろうな」というのが分かるようになりました。