赤井英和 優等生がトイレ爆破犯に!?「“俺は強い”と調子に乗って」【オヤジンセイ】
ボクシングとの出会いは突然に

そんな調子やから中学の内申書が10段階評価の「1」か「2」で、進学はもう無理やと周りから言われていて。担任の先生からは「もう、どうでもせえ」と言われ、兄からは「浪高(浪速高校)にも受からんのか」と呆れられ、それが悔しくて「だったら、受けたろうか」と浪速高校の受験に挑戦したら、受かってしまったんです。
受験が終わって喫茶店で仲間とタバコ吸ってたら、中学校の時の須藤先輩…2個上で当時の浪速高校ボクシング部のキャプテンをされていた人がいらっしゃって、受験したことを報告したら「おお、そうか!そしたら明日、食堂の前に朝9時に来い」と。逆らうことも出来なかったので次の日、行ってみたらそこがボクシング道場やったと。
要するに雑用係が必要だったんですね。荒っぽい先輩だったので2年生は全員辞め、1年生は誰も入らないから僕一人。まだ、試験に合格したわけじゃないんですよ(笑)。でも、そんなんで春休み中、ビール瓶に入った(選手が飲む)水替えたり、掃除・洗濯したりしてたら、「(入学後の)夏休みに三重国体の予選があるからおまえ出ろ」と。
いきなり言われて「どないしたらいいんですか?」と先輩に尋ねたら、ひと言「どつけ!」と。蹴ったらあかん、噛んだらあかん、投げたらあかん、どつけ、と(笑)。当時はまだ大阪でボクシング部のある学校は少なく、1回勝てばすぐ決勝に行けたんです。
僕は運良く勝ってフェザー級の国体代表になり、やる気がちょっと出ましたが、全国大会になったらさすがにレベルが高く、1回戦で負けました。
強敵を破りボクシングへの情熱が加速

2年になった時、青森国体がありました。今はやっていませんが、ボクシングには団体戦というものがあって、佐賀県と当たることになったんです。当時、ライトウェルター級にはサウスポーの強打者の吉田信二という選手がいて、モスクワ五輪(1980年)の有力候補でした。「無名の俺がこいつに勝ったら俺がモスクワ行きや」と息巻いて。
そこでプロのジムに行き、津田博明トレーナーに師事したのですが、明けても暮れても左ストレートばかり練習させられた。今思えば、プロになった時に左ジャブと並んで私の大きな武器になったわけですが、その時はどうしてなのか分からなかった。サウスポーで体の右側が前に出る吉田選手には、左のパンチが有効だったんですね。
そして試合当日。観客も、相手選手も、コーチも…僕以外、誰一人勝つとは思っていなかった中、左ジャブだけでいわして圧倒的な判定で勝ちました。翌月の「ボクシングマガジン」に、「吉田が無名の赤井に敗れる」という見出しを見つけ、ごっつ嬉しくなって。そこから、が然、ボクシングに対するやる気が湧いていったんです。