赤井英和 優等生がトイレ爆破犯に!?「“俺は強い”と調子に乗って」【オヤジンセイ】
大学2年でプロ転向。全日本新人王に

そこから毎朝4時半くらいから走り込み、学校で練習して放課後はジムで練習して、夜は泥のように眠って…を繰り返し、高校3年のインターハイで優勝。そんな時、声をかけてくださったのが、近畿大学の吉川昊允(よしかわ・こういん)先生でした。
モスクワ五輪の補欠に選ばれましたが、日本のボイコットのあおりを受け、大学2年でプロになりました。プロ転向ということで退学届を持って吉川先生のところに行ったら「ご両親はおまえをボクシングするためだけに大学に行かせたわけやないやろ。ちゃんと学校を続けなさい」と。
免除だった授業料もきちんと払って、5年かかりましたが、なんとか無事卒業しました。高校は4年、大学は5年かかりました(笑)。
その後、ずっとお世話になっていた接骨院の院長に津田トレーナーを紹介したことをきっかけに、愛寿ボクシングジム(現グリーンツダボクシングジム)が出来ました。ただ当時、津田会長はタクシーの運転手をしていたので、2日に1回しか教えてもらえない(笑)。決して恵まれた環境ではありませんでした。
また、その頃は世界タイトルに挑戦出来るのは東京のジムしかないと言われていた時代。選手一人会長一人、しかも、長屋を潰して建てたような狭いジムで、ロープに寄っかかったら(きしむ音で)隣で寝ているおばちゃんが起きるから寄っかかるな、なんて言われていたところですから。
アマチュア時代は相手と距離を取りながら戦うアウトボクサーとしてやってましたが、やっぱりボクシングの魅力はKOや、ということで、一発打たれたら二発返す、二発打たれたら三発返す、プロになってバンバン攻めるスタイルに変えました。
1981年、全日本新人王決定戦の西日本代表として出場。相手は帝拳ジムの尾崎富士雄という名選手。津田会長からは、「尾崎は腰を痛めているからロードワークが出来ていない。ということは腹筋が弱い。腹から攻めていけ」とアドバイスを受けました。ボディは相手に上から打たれるリスクはあるが、顔面と違って避けようがない。技術、パンチ力、スピードは尾崎の方が上や、でも、ボクシングに一番必要な“気持ち”は、「赤井が尾崎に勝る」と言われたんです。
今思えば、相手のコンディションなんて会長が知ってるわけないんですよ。すべては僕にボディを攻めさせるために会長がついた嘘だったのではないかと。会長がお亡くなりになった今、確かめることは出来ませんが。